明石氏は、新型コロナウィルスというグローバルな試練に当面している人類が求めているのは、世界が一緒になって対応できる効果的な対処の仕方であると指摘している。そして、戦後世界において、アジアから欧米への留学生を送り出し、日本は先頭を切って高度な経済成長を遂げた時期があった。しかし、今では、中国もインドも韓国も、日本をはるかに引き離していますのが現状でさる。日本人は長く築き上げた文化と習慣そして謙遜の美を敬いつつ、これからは世界の国々の人たちと共存して知見の交流を進めていくべきであると説いた。明石の東京大学入学式におけるビデオメッセージの祝辞は東京大学のホームページからご覧いただけます。
新型コロナウィルスの脅威の下、東京大学入学式は変則的な形をとることになりましたが、日本の誇るこの大学に入学を許された皆様方お一人お一人のこれからの4年間が実り豊かなものになることを心からお祈りします。皆様の入学に当たって挨拶できるというのは、私にとって大きな名誉であります。ここでの4年間は、東北地方の小さな町で生まれ育った私の人生を変えたともいえるものでありました。
今、日本の大学は大きく変わろうとしています。スーパーグローバル大学創成支援事業に選ばれた大学は、東京大学を含み教育においても研究においても世界に開かれた、トップレベルの国際交流を行う努力を要請されています。東京大学も五神総長が掲げる大きな目標の下に進もうとしています。とはいえ、元気そのもののアジアの優秀な諸大学に比べて、日本の大学がともすれば、内向きになってしまうのが気になります。もしかしたら高校生の方が、就職を気にする大学生より、元気で意欲的かもしれないと思います。日本が独自の歴史や伝統、特色を保ちながらも、激化する国際競争の中で堂々と勝ち抜いていくことを私は期待しています。しかし「国際社会の中の日本」というものが果たすべき役割と覚悟が、今のままで十分でないという気がしてなりません。
私は1950年に東京大学に入学しました。新制大学に変わって2年目のことでした。大学にかける私の夢は、もっと知的に貪欲なものでした。駒場であるいは本郷で過ごした私の経験は、初めは大教室で聴いた有名教授の講義にちょっと失望したのですが、少しして、優れた多くの先生方の新鮮かつ刺激に富む話に触発されることが多く、のめり込んでいくようになりました。
私はやや生意気で、やたらに質問をする学生でした。第二次大戦中の画一的な教育に対する反発もあり、目まぐるしくスローガンが変わる戦後民主主義にも懐疑的な世代に属していました。そんな若者の一人として、自分では答えられない大きな疑問が心にうずいていたのを思い出します。
私は自分が専門にやりたい領域がなかなか見つからず、あれもこれも勉強してみたかったのです。新設の教養学科に行ってみるしかないと考えました。しかし教養学科の中でも自分の研究領域を狭めることができないままに、大学院に進むことになり、結局フルブライト留学生に応募し、渡米することになりました。専門を限定出来なかったのは困りましたが、常に広がっていく領域には、たまらない知的好奇心をそそられるものがありました。学士論文はトマス・ジェファソンの政治思想を選び、英語で書きました。
関心をそそられるテーマは、アメリカ人学者が教えてくれた文化人類学もあり、「菊と刀」を書いたルース・ベネディクトの方法論を使って、日本社会を分析してみるなど、興味をそそられました。この先生は自宅のお茶の会に毎週学生を招いてくれました。そこで会ったアメリカの若者たちとの活発な議論でやり込められた私は、悔しさのあまり、英字新聞の社説をいくつか暗記して、対抗しました。英語上達の秘訣は、議論でやり込められた時の悔しさだったと思い出しています。世上にいわれる流暢な英会話を話すことより、文法や語彙や慣用句を土台として、論理的に話すことが肝心だと思っています。大学の卒業式は欠席するはめになりましたが、それは香港で開かれた国際ワークキャンプに参加するため、小さな貨物船で船酔いに悩まされながら東シナ海を渡ったせいでした。
1956年12月、戦後日本はやっと念願していた国連加盟が叶えられました。私はたまたま留学していた小さな大学院大学フレッチャースクールの見学旅行で、国連総会議場で展開された日本の加盟式典を自分の眼でみることができました。アジアを代表して日本の加盟を歓迎してくれたインド代表の暖かい言葉や、戦後日本にどの国よりも親近感を抱いたアメリカ代表による喜びの言葉の後、わが国を代表して話したのは重光外相でした。彼は訥々とした、しかし考え抜かれた英語で、国際連盟脱退以来、世界から孤立していたわが国が、やっと国際社会に復帰した率直な喜びと、これからの世界で念願の新しい国際協力の道を歩む決意を、堂々と述べました。
日本加盟のシーンを目撃した後で、旧知の国連事務局政務部長のジョーダン氏を表敬しました。私の発表をウィスコンシン州で聞いたことのある彼は、私に事務局の政務担当官として応募してみないかと勧めてくれました。いずれ日本に帰って教職につきたいと考えていたので、はじめはあまり興味を示さなかったのですが、ついに説得されました。その結果、重光演説から2カ月もたたないうちに、国連ビル35階に小さな部屋をもらって、仕事を始めることになりました。それがついに40年になってしまうとは、当時夢にも想像できなかったことでした。
国連事務局で与えられた最初の仕事は、前年1956年秋にソ連によるハンガリーへの軍事介入があり、そのため開催された緊急特別総会で、ソ連に対し厳しい批判が行われ、その真相を報告するようにとの事務総長への要請がありました。早速、報告書作成のためのチームが作られ、私も参加しました。政務部では、全く違う国々出身で、言語も教育制度も異なる職員たちが十数名集められ、約2か月間不眠不休で作成したその報告書は、国際的な評価に充分耐えられるものでした。バラバラの国々から集められた混成部隊が、よい報告書を作ることができたのは、国際公務員制度に対する私の信頼を深めました。
ハンガリー事件とほぼ同じころ、エジプトによるスエズ運河国有化に始まる中東危機が発生し、イギリス、フランス、イスラエル三カ国によるエジプト侵略が起きたのに対し、アメリカ、ソ連、非同盟諸国による大きな反対がありました。ハマショルド事務総長とカナダのピアソン外相は、国連憲章に規定のない国連緊急軍の創設を総会に提案し、圧倒的支持のもとにそれが中東に派遣され、事態を正常化するのに大きな貢献をしました。その功績によってハマショルドとピアソンの二人は、ノーベル平和賞を授与されました。国連憲章に規定のない平和維持軍の創設は実に鮮やかなものでした。日本だったら、まず法律や憲法の規定があるかどうかについて、長い論争が起きたに違いないと考えられます。現実のニーズに基づき国際政局の難局に際し見事に対応した国連は、世界を驚かせることになりました。
1970年代になって、私は国連を休職し外務省入りをすることになり、日本政府国連代表部の一員として、国連予算や人事などを審議する第5委員会を担当することになりました。国連行財政に関する専門委員会にも選出されました。私は、分担金に関してかなり大きな額を支払う日本が国連で果たすべき役割を考えたり、より合理的な国連の政策決定のあり方がないだろうかなどと考えていました。国連の国際公務員制度と日本の国家公務員制度の両方を経験するのは、興味深いものでした。合理的でややドライな国際公務員制度と、日本的でやや情緒的でもある国内公務員制度の両方とも経験したおかげで、自分の仕事に多少厚みがついたのではないかと思います。
1979年に事務次長として、事務局に戻ることになりました。その後18年間に亘って、広報、軍縮、そしてカンボジアと旧ユーゴスラビア二つの平和維持活動をそれぞれ担当する事務総長特別代表をやり、最後に人道問題担当事務次長をやりました。仕事はそれぞれに興味深く、異なる課題に取り組むやりがいを感じるものでした。時間の関係で、カンボジアの平和構築に当たった経験と、同じPKOといっても全く異なる旧ユーゴスラビアの厳しい体験について、ごく短く触れます。
米ソが対立した冷戦時代がやっと終わり、安堵の息をついたポスト冷戦期の世界でしたが、国連がまず手がけたのは、約20年に亘って悲惨な国内紛争を経験したカンボジアにおけるPKOでした。第二世代PKOともいうべき多層的な平和維持を行い、この国に平和と民主主義を樹立するという壮大なものでした。常任理事国以外では、日本、インドネシア、オーストラリアなどが熱心にそれを推進しました。これらの国々は、野心的な約二万二千人のPKOの支柱になりました。ブトロス・ガリ氏が事務総長に就任するその前夜に、彼の泊まったホテルに呼ばれた私は、カンボジアでの特別代表の仕事を提案されたのです。晴天の霹靂でした。
カンボジアPKOを担当するに当たって一番心配したのは、カンボジアの世襲君主であり抜群の能力を持つシハヌーク殿下と国連代表の私の間に信頼関係が維持できるだろうかということでした。幸いにして殿下と私との関係は、全体としてきわめて良好に保たれました。
次に、カンボジアの主要な4政党と私との協力関係を保つことでした。心配したのは、ポル・ポト派、いわゆるクメール・ルージュが、一旦合意したことを取り下げ、ついには国連に対する非協力に変わったことでした。手を変え品を変えて説得に努めたのですが、私の説得にも拘らず、ポル・ポト派と国連との衝突事件を起こし、犠牲者も次々にでました。それでも1993年5月には国連による民主選挙が実施され、世界中のメディアがほとんど、国連による選挙がポト派の大攻勢によって悲惨な結末に終わることを予言していたにもかかわらず、現場の私たちは尽くせるだけの懸命な努力を続けたのです。平和を希求するカンボジア選挙民の実に約90%が当日、喜々として投票所に駆けつけてくれました。最悪に備えつつも、最善を尽くした甲斐があったといえるでしょう。
大成功できたカンボジアPKOの後、私を待っていたのは旧ユーゴスラビアにおける、さらに大規模な、平和維持というより平和強制ともいえる困難をきわめる活動でした。友人の多くは、「ユーゴスラビアPKOは民族や宗教の全く異なる三者の間の泥沼であり、おまえが引き受けるべきではない絶望的な仕事だ」と忠告してくれました。しかし成功の可能性のある仕事だけに取り組むのは国際公務員らしくないと考えました。当事者の全部が賛成してくれる活動でないので、国連が本来従事すべき平和維持とはいえないのですが、ブトロス・ガリ事務総長との信頼関係もあり、多くの国々の支持もあったので、私は2年近くこれに取り組みました。
問題だったのは、アメリカがNATOによる空爆、空爆と言い続け、地上軍を全く派遣してくれないことでした。それに国内の三当事者の間の関係は極めて険悪で危険に充ちていたのです。和解と和平への進捗はほとんど皆無でした。
抜本的な平和を樹立することは不可能でしたが、私は国連の代表として、68人の死者をだした1994年2月のサラエボ青空市場の悲劇の後と、同年4月のゴラジデ危機に際して、セルビア人勢力による総攻撃の後、停戦と兵力撤退を確保するため、NATO南部方面軍総司令官のアメリカ人ボーダ提督、セルビア政府のミロセビッチ大統領とそれぞれ深夜まで交渉し、セルビア人勢力との妥協を取り付けることができました。この二つの危機を、時間切れすれすれで解決に導くことができました。ガリ事務総長は一貫して、私のしぶとい交渉を支持してくれました。
結局問題の根本的解決のために、95年暮、アメリカとNATOによる介入が行われて、国連PKOは手を引くことになりました。
2000年8月、私の敬愛する国連体験豊かなアルジェリア元外相のブラヒミ氏による「ブラヒミ報告」が発表されました。その中で彼は、「国連には出来ることと出来ないことがある。国連は出来ることに専念して取り組むべきであるし、出来ないことに手を出すべきではない。安保理事会も予算や兵力を惜しむべきではないし、実行不可能な決議を採択してはならない。」という厳しい、しかし納得できる判断を下しました。カンボジアの成果と旧ユーゴスラビアの挫折の両方を経験した私にとっても、このバランスのとれたブラヒミ氏の紛争解決哲学は、諸手を挙げて賛成できるものです。その後、現在まで国連PKOは大体この線上を歩んできているということができましょう。
私たちは今、新型コロナウィルスというグローバルな試練に当面しています。この現象が求めているのは、世界が一緒になって対応できる効果的な収束ですが、現実の対応の仕方は国々のおかれた状況によってかなりまちまちになるでしょう。日本を世界から隔てるものは、やはり日本の伝統と制度の違いであるといえます。国際化が進んだとはいえ、外国人数がきわめて少ないこの国は、かなり異質的、ガラパゴス的な所があり、大学を含む高等教育の世界でも、それを頻繁に感じさせられます。
かつて60年代、70年代には世界を驚嘆させた日本経済でしたが、近年においては労働生産性がかなり低下しており、OECD諸国の中でも驚く低さであり、G7の中で最低であると聞きます。技能実習生という形でアジア諸国から労働力の慢性的不足を充足しているものの、より高度の移民を段階的に導入することによって、この国の活力を長期に亘って向上させる道を考えるべきではないかと思っています。
戦後世界において、アジアから欧米への留学生を出す点で、日本は先頭を切っていました。しかし今では、中国もインドも韓国も、日本をはるかに引き離しています。この現状は残念なことです。高いレベルの研究論文の発表においても、日本からの論文提出はかなり少なくなっていると報道されています。
日本の英語教育もかなり問題を秘めているように思われます。英語は国際語であり、単なる一外国語ではないはずです。にも拘わらず、その習得ぶりにおいて、問題がありすぎるようであります。同時通訳で知られていた村松増美氏は国連を訪れた際、「国連で一番使われている言語は何か」と私に聞いたら、「それはブロークン・イングリッシュです」と私が答えたと、まことしやかに伝えられています。私が言ったのは、実は「それぞれの国の人が訛りのある英語を堂々と使っている」ということだったのですが、おもしろおかしく潤色脚色されてきたようです。
エチオピアを訪問した際、私はアフリカでも傑出したメレス首相と国連改革の問題で一時間ほどみっちり話し、彼の完璧な問題の把握に舌を巻きました。ジャングルからでてきた革命軍の指導者とはとても思えない説得力でした。どの言語の場合でも、発音や流暢さよりも、論旨と正確さの方が大事ではないかと考えられます。日本人の身についた遠慮とはにかみは、よいものでもありますけれども、相互理解の邪魔をしている場合も多いのではないかと思います。
最後に、東京大学から、もっともっと世界を目指す人物が輩出され、その誰もが色々な国々に知己や友人をつくり、一緒になって世界の未来を創っていく日がやってくることを祈ってやみません。
令和2年4月12日